無題(タイトルなし)

無題(タイトルなし) 大倉光明

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 私しは、浪江町で、震災にあいました。
誰もが、初めて経験する大きな/\(大きな)地震で、津波でした。あの揺れ方は、はんぱでなかった。余震が続きこの世の終りかと思う程揺れました。家中の物がひっくり返り足の踏み場も無い、又余震、立ってる事が出来ない、外に出ようと思うと瓦がカラカラ音を立てて、落ちて来る、頭上に注意しながら四つん這いで表に出た。自前の2トントラックが、踊っていました。舗装道路は波の様にウィーブし電柱はビュン/\(ビュン)音を立てて引き合って本当に怖かった。自分の所は、大丈夫、兄家族が心配で、見に行くと2階建の作業場が、傾き倒れかけていた、母は無事、畑に居ました。
夜に成り、家族全員無事を確認し余震の中で2トントラックで食事を取り布団を持ち込み仮眠でした。夜中、余震の度にストーブの火を止め寝た気がしませんでした。次の朝請戸を見に行くと、田んぼに、山の中腹に漁舟が打ち上げられ、請戸地区の家屋が全く無い
家に戻ると、原発が危ないと、町民達が移動始めました。まさかと思いながら、昼過ぎまで自宅で、片付をしてたら、自衛隊のヘリコプターに、避難する様指示されました。妻の実家、鹿児島の母親からも避難する様うながされ南相馬市へ移動し一晩過ごし次は飯館を経由し福島あずま運動公園、渡利方面でたき出しをしてる等情報が入り転々としました。
三月十九日東京より娘婿二人が迎えに来てくれ、母と妻と三人で東京に避難して来ました。
娘の所で世話に成り、四月一日より現在の所で静かに暮らしております。振り返りますと中野に来た当時は、紙袋両手にさげて、本当に自治会の方々には、良くして頂きました。
私は、失なう事、物等たくさん有りました。仕事が八百屋で、お客様や隣り組、同級生等皆が全国に散らばってしまいました。しかし中野に住んで、はたけ365紹介され、仲間が、多勢出来ました。野菜作りを通して、土を耕やし、収穫を楽しみ、お茶をする、最高